現代人が考える生きがいや生きる喜びとは何か?

萩原敦さんの投稿です。
萩原さんは癌と糖質の関係について詳しい方ですが、哲学的思考を持ち合わせており、以前に私も含めなぜ医師にダメ人間な多いのか理論的に批判してくださった方です。私の知恵を高めてくれるきっかけとなった大事なお方です。萩原さんが問う理念は共感するところが多いのでブログにアップしました。

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現代人が考える生きがいや生きる喜びとは何か?
  ~永遠にみじめで悲惨な現代人~

我々は、本来は、政治家の言動や行動に目を光らせていなくちゃいけないんだろうけど、大人も子どもも、日々の生活や、自分のことで精いっぱいなんだよね。

 大人も子どもも、物理的な豊かさや金銭的な豊かさを求めていて、まるで、それが幸福になる唯一の手段だと錯覚していたり、はたまた、お金をどれだけもっているか?が、人間の評価だったり、たくさんのお金が人生の成功に不可欠なものだと考えられたりしているよね。

 企業なんかは、売上や利益を、去年よりは今年、今年よりは来年、来年よりは再来年という風にどんどん増収増益したいという拡大均衡をひとつの企業哲学や企業倫理と考え、さらには企業としての正義のように考え、その方向へ狂ったようにまい進しているよね。手段はどうでもいいんだよ、まさに、なんでもありだ。

 そういった企業の社内では、売上のよい営業マンは良い社員で、売り上げの悪い社員は悪い社員という見方をされ、それが人間(社員)の能力の絶対評価になる。

 だから社員の人間性なんて、ほとんど問われない、どんな方法でもいいから、売上を上げた人が勝利者で、良い人間で。素晴らしい社員ということだよ。なんでもありの無法者の世界のようだな。こんなことを助長して、正義としたり、善としたりして、人間、心がおかしくなっている。

 会社で言えば、増収増益の会社の株価はどんどん上がる。金儲けのうまい人間集団や組織が評価され、格付けがアップして、お金がたくさん集まり注目される。反対に金儲けの苦手な人の集団や組織は淘汰され、軽蔑され、蔑まれ、落後者として社会からはじき出される。

 金を多く集める能力のある人が評価され、お金を多く集めることができない人はダメ人間やダメな会社の烙印を押される。

 金儲けと言う人間の才能のごくごく一部を取り上げて、それもデフォルメして評価するんだよね。これは、ひじょうに恐ろしいことだよ。金儲けのテクニックに特化した人間の不毛な「全員敗者のゲーム」が始まるんだよな。

 人間には多様性と言うのがあって、10人10色いろんな才能があるんだけど、今の人達は、金儲けの才能だけを重要視して評価する。他の金儲けに結びつかない才能は、まったく無視なんだよ。これは、おかしいとは思わないかい?これは人間の多様性の否定であり、人間本来あるべき姿の否定にもなる。

 話は、少し横道にそれるけど、学校では、対受験の為の学力に優れた子どもが評価され、対受験の学力で劣っている子どもは、おちこぼれになる。大人の社会は「お金の多寡だけが問われる世界」だけど、子どもの学校においては、対受験に対する学力が、その子どもの評価と価値を決める・・。

 子ども達は、多様な潜在的な才能に恵まれているまさにダイヤモンド原石のような存在だけど、こうやって、潜在的な才能は、虱潰しに潰される・・こうやって子どもたちを残酷な篩にかけるんだよ。どんどん、才能の宝庫である子どもたちが、教師や親や、大人達や学校や社会に潰されるんだよ。サバイバルするのは、受験勉強の暗記や解法だけが得意な奇怪なる偏執狂的な受験オタクばかり、そして、暗記や解法ばかりやっていると、自分で考えることをしなくなり、疑問が湧かなくなる。ようするに従順過ぎる子どもをつくりたいのさ。思考力や洞察力が退化する。

 この文部科学省がつくった篩のシステムのことを、
夜回り先生の水谷先生は、

「七五三方式」

と名付けていた。

実際に名付けたのは、文部科学省のエリート官僚らしいけど、

小学校で、30%のおちこぼれをつくる、

中学校で50%のおちこぼれをつくる、

高校で70%のおちこぼれをつくる・・

大学のことは説明がなかったけど、

90%をおちこぼれさせ、

10%で、よろしくやっていきましょう!

ということなんだろうね・・。

だから、文部科学省は、我が国の学校を教育の機関ではなく、おちこぼれをつくる機関だと設定しているという恐ろしい事実が、水谷先生から暴露されたんだよね。

 さて、話は戻るよ。

 繁栄や物理的な豊かさや経済発展の向こうに、人間本来の生きがいや生きる喜びなんて本当はないんだけど、国家(税収)も、地方自治体(税収)も、官公庁自治体(税収)も、企業(売上と利益)も、個人(給与や所得)も宗教団体(お布施)も、あらゆるところで、渇望しているのは、「お金」だよ。露骨に「お金」とは言わないよ。経済発展とか、繁栄とか豊さと活性化とか、一村一品とか、美辞麗句を並べ立てているけど、本質は単なる「金儲け」なんだよ。

 我々血の通った、命ある人間が主役ではないんだよ、何か、ものを買う時に使う「お金」(紙切れ)が、主役の世の中になっている。我々人間が主役のように見えて実はそうじゃないんだよ。だから、「人間性なんて問われない・・。」「人間性なんて無視され、どうでもよいことになる」人より金儲けがうまい、人より多く金を持っている。それが、今の社会で、評価される人間の基準であり絶対評価だよ。

 この論理にズバリ当てはまるのが、原発だよね。お金至上主義の人達には、この原発の世界は、シンプルでわかりやすい論理だよね。「なんだか、本当はとても危険で恐ろしい物らしいけど、御用学者の話では、なんとかなる、みたいだから、原発を誘致して、がっぽりお金を集めようよ」。というのが、原発立地誘致の自治体や住民の愚かな考えだろう。

 原発立地自治体の議員の連中は、いつも、こんなことを言っている「なんかないか?」「なんかないか?」で中央の自民党系の議員に働きかけるんだよね。「なんかないか?なんかないか?」これが、原発を地域に建設する為の合言葉なんだよなあ~。あきれるよな。この「なんかないか?」の意味は、ようするに「金になるもの、なんかないか?」ということなんだよ。これが、地方議員の正体だよ。

 電力会社も、「原発は、なんだか、水力や火力と違って、人間が太刀打ちできるようなものではなく、とてつもなく危険なものらしいけど、御用学者の話では、まあ、なんとかなるってさ!だから、コストをかけるだけ、かけて、でっかい原発造って、例の「総括原価方式」という「打ち出の小づち」を最大限に活用して、とんでもなく、どでかい原発造って、たんまり必要のない広告宣伝費を新聞・テレビ・マスコミに垂れ流して、国民を反原発にさせないようなウソの情報(原発は安全だとか、原発は低コストだとか)を流して、国民を騙して、原発推進派に洗脳して、刷り込んでもらい、我が社をたんまり儲けさせてもらって、給料をたんまりもらって、人生エンジョイしようよ。政治家やエリート官僚が俺達電力会社の為に作ってくれた「総括原価方式」を最大限に活用させてもらおうよ!」

  こうやって、お金に翻弄されると、我々人間は、人間でなくなってくる。人間本来の心の部分、良心の部分や、良識の部分が取り残される。どんなにお金を集めても、どんなに贅沢な暮しをしても、人間の心は、人間の欲望は、人間の本能は満たされることは、ないんだよね。

 みんなそのことにまったく気付いていない。だから、お金を、愚かにももっともっと欲しがる。新しい商品がでたら、買いたがる。おいしいグルメ番組を観たら、それを食べたくなる。でも、新しい商品を買っても、すぐに飽きちゃう。おいしいグルメを食べても、また、もっともっとおいしいグルメが食べたくなる。満足することを知らないのが、愚かな人間の特徴のようだけど・・。あとで、説明するけど、欲望の方向(ベクトル)が間違っているだけなんだよ。物欲や金銭欲には、リミッター(限界値)がないんだよ。詳しくはあとで、説明するから・・少し待ってくれ!

 人間のそういった本質の話は置いておいて、とりあえずは、お金とモノとサービスに翻弄されているのが、現代人だと思うよ。そこにつけ込んだのが原発なんだよね。

 本当は、お金なんて、生活するのに困らない程度のお金で充分に幸福になれるのにね・・・。愛する妻がいて、愛する子どもがいて、家族が健康で仲良くやれたらそれ以上の幸福なんてないんじゃないの?愛する人がいて、その人達と仲良く健康に過ごせるって、素晴らしいことだと思うけど・・どう?原発呼びこんで、その原発がフクイチみたいに事故起こして、家族がバラバラになって、知らない土地に非難させられて、土地や家や財産や仕事を失って、放射能鱈腹浴びて、仮設住宅に引っ越しだよ。わざわざ、悲惨でみじめな人生を選ぶことになるんだよな。

 結局は、このような、地味で質素なライフスタイルを否定して、間違った生きがいや生きる喜びを、煽るのは、派手で華やかな世界を演出する(幻想や夢を売る)テレビCMや広告や芸能人だよ。それらの派手で華やかな世界の広告の背後には、大企業の腹黒い金儲けの本性が見え隠れする。大企業は、どうやって大衆を騙して商品を買わせるか?それに最大限の経営資源を投入する。

 それらの商品やサービスを買ってくれる個人の健康や生きがいなどにはまったく興味がないし、個人の生きがいや生きる喜びは、当社の商品を買う事で簡単に実現できると嘯く。そして、我々は簡単に刷り込まれ、騙され、そんな大企業の商品を買う。だけど、結果的に満たされない・・だけど、性懲りもなく、何度も何度も、騙され、また、新しい何か(商品やサービス)を買ってしまう。なぜだろう?

 これは、私達の本能や本性や脳は、物理的な豊かさや金銭的豊かさで幸福を感じることができないようにプログラムされているからなんだけど。DNAの配列がそのようになっていると考えてもらってもいいよ。

 マスメディアから発信されるCMや広告は我々の生きがいの形を物理的豊かさや、利便性や、快適さ、金銭的豊かさだとか、進歩とか、科学とか、新しさとか、革命とか、革新とか、抽象的で耳触りのよい言葉で幸福と言うイメージをつくり上げでっちあげ、捏造し、表現し、それらに幸福の真髄や幸福の本質や幸福の終着点があるように刷り込む。

 しかし、それらに、人間の生きがいや生きる喜びの在り方や具体的な形はない。決して、それらを究めても人間の生きがいなどにはなりえないよね。まさに、その仮初の有頂天な気分、底の浅いヴァーチャルな上機嫌を味わえるだけだよ。一瞬のね。

 生きがいや生きる喜びって、まさに抽象的な言葉であり概念だけど、たとえば、ある人にとって、何かとてもやりたいことが、あったとする。それを、たとえば、半年後にやろうと、思った時点で、生きがい感は味わえるハズである。(これを私は、生きがいのスタートポイントと言ってる)そして目標に向かって暮らす日々も、生きる喜びだ。そしてついにその日、その時がやってくる。まさにそれが実現して生きる喜びの絶頂にある。しかし、それは、必ず終わる。・・・しかし、その日が過ぎても、その人にとって、今度は、過去の思い出としてのその時の生きがい感が残るのである。

 本来、生きがいってのは、大げさに言えば永遠に普遍な時空を超えたものなんだよ。楽しい経験は、永遠の記憶としてストックされるんだよね、思い出とかいう言葉で、表現されるけど、思い出しただけでも、生きる喜びを感じられるということは、絶対に誰にでもあるハズなんだけど、そういった、身近な生きがい感や生きる喜びの価値観を否定するのが、支配者連中なんだよ。でもって、それにどっぷりつかって、袋小路に入って、ローンに振り回されているのが、我々だよね。日常の何気ないやりとりに、生きる喜びを見いだせない人は、結局は、快楽や、物欲、金銭欲、支配欲、権力欲等に走り、ボロボロになって、ほとんどの場合、寂しくも悲しい悲惨な老後をおくることがほとんどだ。

「何気ないさりげない日常になんらかの生きがいや生きる喜びを見いだせる人は幸いである。

 しかし、それが出来ない人は、結局は、自らの欲望を増幅し、その欲望を達成することが生きる喜びの真髄と理解し、終着駅のない欲望という列車の切符を買い、悲惨な人生を歩むことになる」

 ラ・ロシュフコー

「賢い人を幸福にするには何もいらない・・
しかし、愚か者を幸福にするものは何もない・・
ほとんどの人が、不幸で惨めなのは、そのためである。」
 
 簡単に説明すると、まず、車でも、パソコンでも、住宅でも、なかなか現金では買えない。そこで、手をすりすりしながら、救世主よろしく銀行家がやってくる。

 あなたの、望みをかなえましょう。今すぐに、あなたの欲しい物が手に入るようにはからいましょう。といって、ローンを組む。でもって、銀行家がこのように正当化する。

 これで、貴方様も、現金では到底買う事の出来ない、お車が手に入りました。さらに、車屋さんは、車一台の売り上げが上がり、喜びました。私ども、○×銀行もあなた様とローン契約を結ぶことができ、あなた様から、むこう、10年間、毎月、金利付きの返済をいただけることになりました。これで、あなた様、車屋さん、銀行の三者それぞれが、利益を得ることができました。

 「さらには、新たに自動車保険、最寄りのガソリンスタンド等、お車購入に付随する様々な、出費が発生し、あなた様は、社会の経済発展に微力ながらも、貢献することになるのです。」

 なんて、しらじらしい、説明をきいて、ほとんどの人が、「なるほど、そうだよな!物を買う事は、日本経済の発展に寄与したってことなんだ!」なんて、真面目に思ってしまう。

 銀行家が、企業や個人に貸し付けを行えば、経済発展は簡単に可能なんだよ。銀行家が、貸し付けを渋れば、自然と、経済は停滞する。

 もっともらしく、経済政策なんて言ったりしてるけど、本質はたくさん貸すか?、貸さないか?

 FRBとかいうところの金利の話が出るけど、ごくごく単純にいったら、金利(すなわち、貸すか?貸さないか?)の上げ下げだけ・・適当な能書き垂れてね・・でみんな、真剣な顔して、ボルカーとかグリーンスパンとかの話を聞いている・・私に言わせれば、彼らは、単なるアホだよ・・。

 話を戻すよ、

 一番人間として理想的な生きがいの在り方は、今説明したようなことを、複数の人達と共通の楽しみとして、行う事だろうね。それが人間本来の生き方であり。本来の人間の在り方だよね。

 よく、スポーツの世界で、良く聞く言葉だけど、「団体スポーツの方が、目標達成した時の喜びが大きい」と聞くけど、まさに、人間の有るべき生きる喜びの在り方を具現していることだと思う。連帯感と言うか?協調しながら、仲間同士で何かひとつの目標に向かい、それを達成する。

 人間の本能や人間の生きがいや心の充足のプログラムが完成したのは、諸説あるが、おおよそ、10万年以上前くらいの頃だと言われている。現代人のそれと、その頃の人類の心や本能のプログラムはなんら変わっていないんだよね。

 家族を愛する。子どもを愛する。仲間とともに何かを分かち合う。人間は社会的動物なんだよね、仲間と一緒に何か共通の目的(たとえば狩りとか)で仲間同士が分業しながらそれぞれの役割を全うして、狩りを成功させたり、成果をあげた時に感じる幸福観や仲間としての連帯感や一体感。その辺が、人間のもっとも根源的な生きる喜びの一つなんだけど、そういった仲間と協調しながらひとつの目的に向かう、そして成果や成功を分かち合う、たたえ合う的なことが、現代社会では、ひじょうに少なくなっているよね。この社会は、利他よりも、利己の世界に変貌したんだよ。

 繰り返すけど、その当時の人間が生きる喜びを感じる仕組み(プログラム)と現代人の生きる喜びを感じる仕組み(プログラム)は何ら変わっていないんだよ。だから、いくら、金を集めても、いくら、プール付の豪邸に住んでも、すぐに、飽きてしまい、また、下らんおもちゃを買い求める。永遠に満足できないんだよ。欲望が限りないのではなく、欲望のベクトルの方向が間違っているだけなんだよ。我々の欲望充足のプログラムや本能のプログラムが完成した時の社会には、お金もないし、富と言う概念もないし、物理的な豊かさという概念すらなかった。

 繰り返すが、我々の生きがいへのベクトルが、まったく違う方向へ向いているんだよ、現代人は。そもそも、欲望充足のプログラムや本能の中に、お金を増やすこと、金儲けの事、物理的な豊かさのこと、それらが、含まれてないんだから、いくら金儲けしても、いくら富を集めても、いくら物理的に豊かになっても、永遠に満たされないように、人間の心はプログラムされているんだよ。それなのに、お金や、物理的豊かさを渇望するから、永遠に止まらない、永遠に充足しない、永遠に生きる喜びを感じることができない。ただ、それだけの話なんだよ。難しい話なんかでは、決してないんだよ。

 そこに、つけこんできたのが、ヴィクター・ロスチャイルドやルイス・L・シュトラウスやヘンリー・キッシンジャーや中曽根康弘や正力松太郎なんだよ。

 原発推進の流れや原発の目的や本質を調べていくと、この現代社会の縮図が理解できる。業界は違えど、いかなる業界も基本的な仕組みは、政産官学が一体して、我々を食い物にしている。どんな業界も外見は違うように見えても内容は、だいたい同じだ。政治家と官僚と財界と御用学者で国庫を山分けしているだけだよ。原発だけじゃない、リニアも新幹線も、オリンピックも国庫を不用意に蝕むものはみんな適当な大義名分の名札を付けて、連中に山分けってわけだな・・

 そして、我々は、いつも、いつも同じ手法で、騙されることを欲し、騙されれ、彼らの術中にはまる・・

 巨大医療産業や巨大金融界や巨大資源メジャーや各種巨大産業や巨大食料産業や巨大穀物メジャーらの販売の流れも政産官学一体化して、我々に対し権威ある機関や権威ある学者がモノ申し、我々は刷り込まれ、そして、彼らの商品やサービスが、怒涛のように我々に迫ってくる。
 彼らの正体や本質を理解して、彼らの術中にハマらないように、彼らに翻弄されないようにすることと、偽物の、偽りの生きる喜びに惑わされないことが重要なんだよ。


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